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大伴 中村 橘 ~ roots [ぶっちゃけ]

中村氏

中村-甲賀郡人で、中村一氏の家か。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/ootomo-k.htm
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立沢瀉/梅鉢
(桓武平氏良文流 [異説多し] )


 大田亮氏の『姓氏家系大辞典』では、中村氏を橘姓として「甲賀郡杣荘発祥の豪族にして、秀吉に仕えて有名なる中村一政、同一氏を出す。此の中村氏は橘右馬允公長の裔、瀧氏より分かれると云ふ。されど異説多く、或は佐々木氏の族、山崎の余流とも伝へ、藤姓と云い、平氏と云ふ説もあり」と記されている。橘姓、佐々木、藤姓、平氏と盛りだくさんなもので、古いむかしのことに関しては不明といったところであろう。
 一方、『古代氏族系譜集成』所収の中村氏系図(参考系図参照)によれば、桓武平氏平良文流の中村庄司宗平の子二宮友平を祖としている。二宮氏は鎌倉幕府に仕えたが、二宮実忠のとき、鎌倉幕府が滅亡したことから甲賀に蟄居した。その子一宗は中村小二郎を称して宗良親王に仕え、一宗から六代目に一政があらわれ、その孫が中村一氏となっている。
 ところで、中村氏は近江国甲賀郡に繁衍した伴四党(大原・上野・伴・多喜)の流れという説がある。近江伴氏は、大納言伴善男の子孫という大伴姓富永氏の一族で、伴家継が多喜に住して多喜を名乗った。室町時代、六角高頼に属した多喜勘八郎俊兼は、長享の乱(1487)に活躍して甲賀二十一家の一に数えられた。多喜氏系図によれば、俊兼の孫馬杉秀信の子孫作がはじめて中村を名乗り、その子が中村一氏となっている。




 いずれが真実を伝えているのか、にわかには判じがたいが、のちのことから考えると甲賀説が有力に思えてくる。いずれにしても、中村氏は一氏の代に世にあらわれたことだけは史実である。

一氏の登場と活躍

肖像  中世、甲賀武士は近江守護六角氏に属しながら、甲賀郡中惣を形成してなかば自立した存在でもあった。六角氏が没落したあと、甲賀武士は織田氏に属するようになったようだ。天正十年(1582)六月、本能寺の変で信長が倒れると家康に通じる者、秀吉に通じる者など、思い思いの道を選んだ。やがて、天正十三年、秀吉の紀州攻めに甲賀武士も従軍したが、紀ノ川の堤防工事における失策を咎められて領地没収の処分(甲賀破儀)を受けた。秀吉にすれば、甲賀武士たちが家康方に通じた気配があったこと、郡中惣をもって自立意識が強かったことを嫌い、排除の機会を待っていたようだ。
 一方、天正五年(1577)、羽柴秀吉に属した一氏は、大坂石山本願寺との戦いにおいて一躍名をあげ、次第に取り立てられた。天正十年、本能寺の変で信長が倒れたあと、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いに活躍、天正十二年、一連の戦功によって和泉国岸和田城主に封じられた。翌十三年、秀吉の紀伊征伐が開始されると、紀伊の一揆勢が岸和田城に攻め寄せてきた。一氏は自ら討って出ると、大坂から駆けつけてきた黒田孝高と一揆を挟みうちにすると八百を討ち取る大勝利をえた。
 紀州征伐後、近江水口六万石に転じられ従五位下式部少輔に叙任した。この人事は、甲賀破儀で甲賀武士を改易した秀吉が、かれらに睨みを利かせるため甲賀出身である中村一氏を起用したものであろう。一氏は水口東方にある小山に岡山城を築き、領内の安定に尽力した。
 十四年には四国征伐に従軍して阿波木津城攻めに活躍、十八年の小田原攻めに際しては山中城攻めに先駆けをするなど目覚しい功を挙げ、駿河国府中十七万五千石の城主となった。『名将言行録』などによれば、小田原の陣後、北条氏の遺領を与えられた徳川家康に備える任を担ったとある。府中城に入った一氏は、舎弟一栄を沼津城に入れ、領国の守備体制を図るなどして秀吉の期待に応えている。
………
写真:中村一氏画像 (東京大学史料編纂所データベースから)

中村氏の浮沈

 文禄三年、伏見築城の工事を担当、翌年には秀吉の駿河直領(蔵入地)の代官に任じられた。このころ、稀代の英雄豊臣秀吉に老衰の色が見えるようになり、五大老と五奉行の制が設けられ、一氏は生駒親正、堀尾吉晴らとともに三中老として政事に参与した。しかし、中老職がどこまで機能したのかは疑問視されている。
 慶長三年、秀吉が死去すると、その後の豊臣政権をめぐって大老の徳川家康と奉行の石田三成との対立が顕在化してきた。それに、加藤清正・福島正則らの武断派と石田三成を中心とする文治派との対立も激化、政情はにわかに波乱含みとなった。機を見るのに敏い一氏は家康に通じ、慶長五年(1600)、家康が上杉景勝征伐の陣を起こすと、その出陣を強く諌止した。しかし、家康は関東に出陣、その留守を突いて石田三成が兵を挙げた。
 この関が原の合戦において、一氏は家康に味方したが自身は病気であったため、代わって弟の一栄が出陣した。そして、決戦前の七月に一氏は没し、あとを嫡男の一忠が継ぎ、戦後の論功行賞で伯耆米子十七万五千石の城主となった。一忠は松平の称号をゆるされて、秀忠養女をめとって室とするなど前途は洋々たるものがあった。
 ところが、一忠の素行がおさまらず、心配して口うるさく諌める家老横山大膳を逆恨みにして、これを斬ってしまった。一忠の仕打ちに怒った横山一族は、飯山城に籠ると抵抗の構えをみせた。騒動は隣藩堀尾家の助勢などをえてどうにか鎮圧したが、両御所(家康・秀忠)の耳に入り、大いに気色を損じてしまった。そのような折もおり、慶長十四年(1609)、一忠が早世してしまったのである。一忠には男子がなく、大名中村氏は断絶、改易の憂き目となった。一説に、一忠には庶子があったというが、御所へのお目通りもしておらず、封を継ぐことはかなわなかった。一氏一代で大名となった中村氏は、わずか二代であっけなく潰えてしまった。





きっけしんとう【橘家神道】

江戸時代中期,玉木正英が唱導した神道。橘諸兄(もろえ)から伝わると称する。思想・教学的な面より行法や儀式を重視,蟇目(ひきめ)・鳴弦など諸神事・秘伝を体系化した。



たまき-せいえい 【玉木正英】

(1670-1736) 江戸中期の神道家。京都の人。通称は幸助、号は葦斎。垂加神道に神道行事を加え、秘伝などの組織化を図った。谷川士清をはじめ多くの門人がいる。著「玉籤集」「神代巻藻塩草」など。




大伴氏族と久米氏族     

  大伴氏族概観


○ 大伴氏族は、天押日命の後裔とされ、神武天皇より早い時期に紀伊に遷住してきた天神の一派で、山祇系の流れである。その系譜は、より具体的には神武創業の功臣、道臣命の後裔である。
  道臣命は紀州名草郡片岡邑の人であり、その功により大倭国築坂邑(高市郡北部。現橿原市鳥屋町辺り)に宅地を賜ったという。その祖天押日命について、瓊々杵尊の天降り随行という伝承があるものの、この氏族の遠祖には紀州土着の色彩が相当強い。この氏族の紀州在住時代に紀国造氏族(紀伊氏族。天御食持命後裔)を分岐した、というより、むしろこの氏族の方が紀国造氏族の一支族と位置づけられよう。
 こうした出自の影響か、大伴氏族の榎本連、丸子連、仲丸子連、宇治大伴連等が紀伊国で繁栄した。

○ 大伴氏族は、その発生段階から久米部や靫負を率いて宮門の警衛にあたる軍事職掌の氏族であり、倭建命の東征にも武日命とその子弟等が随行したが、何故か国造家は全く創出されていない。この氏族の分布は、中央では畿内及び紀伊などその周辺にあり、地方では東征随行の影響で陸奥にかなり広範にみられる。大伴氏族から神代に分岐したかのような系譜をもつ久米氏族は、実際には崇神前代に分岐した近い氏族だったとみられる。

○ 中央の大伴氏族では大伴連、佐伯連が代表的な存在であり、大伴連では雄略朝の大連室屋、その孫で武烈・継体など四朝の大連金村の時代が全盛期であったが、任那割譲問題の失政から勢力を失った。その後は、金村大連の子・阿被布古連の流れが大伴本宗家の地位にあり、金村の後の一時の低迷期から脱して、大化改新後の右大臣長徳の存在や壬申の乱の活躍などで、奈良朝には宮廷人として相当栄え参議以上の官職に昇る者もかなり見られた。阿被布古の兄・狭手彦の流れも、大和に根強く残った模様である。

  平安期に入ると、延暦の藤原種継暗殺事件で、死後間も無い家持ら大伴一族が主謀者とされて大打撃をうけたが、やっと立ち直った形の大納言伴宿祢善男が貞観八年、応天門の変で失脚し、平安中期以降は下級官人化して長く存続した。伴氏最後の参議保平とその兄弟が平安中期に朝臣姓を賜ったが、官人としては狭手彦の流れも平安中期まではみられる。
  この二流も含め大伴氏族で「大伴」の名を冠する姓氏は皆、弘仁十四年四月淳和天皇の諱を避けるため「伴」に改められた。大伴氏族の支族が改賜姓して単に伴宿祢姓となる類例があり、伴大田連、伴良田連、山前連、林連、伴林宿祢からの改姓が史書に見える。

○ 平安中期以降、中央の大伴氏族が地方に土着化したという伝承がいくつかみえるが(ないしは、そのように称されるが)、これら地方の大伴氏族は、実際にはその殆ど全てが系譜仮冒であろう。
  その中では三河(駿河麻呂あるいは善男の後裔と称。後に三河から近江の甲賀に分かれたものがあり、両国で繁栄する。なお、この三河の伴氏について景行天皇後裔の大伴部直姓と太田亮博士はみているが、祭祀の継承等も含め、その可能性もあろう)や、甲斐(金村の子・磐の後裔と称)、伊豆(大納言善男が配流されて彼地に遺した胤の後裔と称)、薩摩(肝付等の諸氏で善男の子・中庸の後裔と称するが、おそらく当地の古族の末か)などの地で繁栄しており、このほかでも甲賀の鶴見氏、平松氏や出雲の朝山氏、伊予の大野氏等も大伴姓を称した。
  逆に、大和の大伴氏族の流れは、大和源氏(清和源氏頼親流)のなかに入り込んだ模様で、源姓を称した中世大和南部の大族越智氏も実際には大伴氏族の流れをなんらかの形でうけたものか。

○ 大伴氏族及びそれから発生した主な苗字をあげると次の通り
(1) 本宗家……大伴連(録・左京、河内未定雑姓)、大伴宿祢(録・左京)、伴宿祢(関係の主要苗字は後掲)、伴朝臣(小野、石塚、豊田、畑-京官人、主殿寮。尾崎-桂宮諸大夫。大伴-相模国鎌倉の鶴岡八幡宮神主家。小林-相模国鎌倉郡小林郷より起る)。
 伴宿祢については、支族から改姓してきたものも上掲のようにかなりある。本宗家の伴宿祢から発生したと称する主要苗字には、疑問ありのものも含めて掲げると、
●伊豆国人の石井、吾曽、阿美、大川、入江、住友。この系統は大納言善男の後とされるが、豊前守伴朝臣為国の近親から出た可能性もある。

●三河系統は、三河国碧海・幡豆郡に起った大伴部直(景行天皇後裔と称したが、実際には鴨氏族で三野前国造族裔か)の後裔という可能性が大きいが、伴朝臣姓を称。三河では東部の八名・設楽郡に移って発展した。また、近江国甲賀郡にも分れて繁衍したといい、甲賀武士として知られる。その一族としては、
  大屋、幡豆、冨田-三河国幡豆郡人。中条、大林-同加茂郡人で、中条は加茂郡猿投神社祠官にもあり。長沢-同宝飯郡人。八名、宇利-同八名郡人。設楽-設楽郡人で大族、菅原朝臣姓とも称。富永、黒瀬、塩瀬、野田-設楽郡人。三木-同碧海郡人。土井〔土居〕-三河国額田郡針崎土井村より起る、武家華族。夏目-設楽郡に起り幡豆郡に遷、幕府旗本にあり、称清和源氏伊那一族。寺部-同宝飯郡国府八幡神主、また称源姓。高松、沢田、伊与部、八椚、宮永、柴山、栗田、種田-三河人。桑原-遠江人。
  甲賀の伴氏一族は、平安末期に三河伴氏から分れたといい、系図でも甲賀郡大原村に住んだ資乗を祖とするが、再考を要する。立川氏文書の応和三年四月の甲賀郡司解状に甲賀郷長伴宿祢資守等が見えており、この文書が正しければ早い時期から伴宿祢氏が甲賀地方にあったことが知られる。その場合、資乗が三河出自とはいえず、また甲可公族裔の仮冒の可能性もあろう。
  伴、大原、小佐治、笹山〔篠山〕、柏木、勝井、広森、向山、繁見、岡、中井、上田、馬杉、滝川、高屋、鷹水、毛牧、上野、大鳥居、山岡、垂井、滝〔多喜〕、沢、小谷、和田、中上、木全、奈良崎、櫟野〔市野〕、内田、関野、市場、増井、亀井、岩野、増田、竹林、木村、小泉、大口、石部-近江国甲賀郡及びその周辺に住。池田-尾張人で滝川一族、武家華族。中村-甲賀郡人で、中村一氏の家か。

●薩隅系統の肝付〔肝属〕の一族で、文書等には伴朝臣姓を称。おそらく実際の出自は葦北国造族の伴部姓とみられるので、吉備氏族の葦北国造関係を参照のこと。
  梅北〔梅木田〕、救仁郷(源姓渋川一族と称するのも同じか。中世、諸県郡飯隈山別当を世襲)、北原、馬関田〔馬瀬田〕、検見崎、萩原、前田、安楽、津曲、永田、岸良、橋口、野崎、河南、鹿屋、三俣、山下、川北、川南、頴娃、加治木、小野田、薬丸、荒川、城ケ崎、内之浦、榎屋、慶田、二方、窪田、小城、柳田など-大隅国肝属郡人の肝付とその一族で、薩隅日に広く分布。出水〔和泉〕など-薩摩国出水郡人。宮里、高城-薩摩国高城郡人。武光〔武満〕、寄田-同州薩摩郡人。白坂-日向人。武雄-肥前国武雄社大宮司。

(2) 大伴支族……大和南部の高市・葛城郡から紀伊国にかけての分布が濃密。
  大伴山前連(録・和泉)、山前連、家内連(録・河内)。
  大田部連、大伴大田連、大伴大田宿祢(録・右京)、伴大田宿祢、大伴良田連、伴良田連、宇治大伴連、伴連(同上族。和佐-紀伊国名草郡和佐より起る。小倉-紀州那賀郡人、両者とも称大伴姓。那賀郡の大伴姓の三毛、奥氏や伊都郡の竈門明神祠官の竈門も同族か)、神私連(録・左京)、大伴櫟津連、大伴若宮連。

  大伴朴本連、榎本連(録・左京。榎本-紀伊国牟婁郡熊野人で新宮党、武蔵下総相模に分る。田井-紀州牟婁郡人)、榎本宿祢(榎本-江戸期に蓮華光院門跡の坊官・侍、称越智姓。なお、山城国乙訓郡の鶏冠井は族裔か、土佐陸奥に分る。なお、室町期の大族上杉氏も族裔か)、榎本朝臣(有馬-牟婁郡有馬に起る、産田神社祠官)、丸子連(石垣-紀伊国熊野新宮の人。宇井〔鵜井〕-熊野人、下総国香取郡に分る。前田-紀伊国人、また伊勢国安濃郡前田村より起るのもあり。三河の鳥居も同姓という)、丸子宿祢(片岡-常陸国人。丸〔麻呂〕-安房国朝夷郡丸郷より起る。安房の丸一族として、珠師ケ谷、原、宮下、石堂、岩糸、前田、神子上〔御子神〕などがあげられる)、仲丸子(録・大和)、仲丸子連(紀州牟婁郡林浦の仲、別当は族裔か)、仲宿祢。ただ、丸子連及び仲丸子連は、その氏の名からも海神族の色彩が強く、系譜仮冒があって、実際には高倉下系か和邇部氏族の出であったのかもしれない。(この辺り、要検討。本HPの「丸子部と丸部」を参照)

  佐伯連(米多比-室屋大連末流で佐伯姓というが、筑前居住か)、佐伯宿祢(録・左京。佐武-紀伊国鷺森人。佐伯、笠原-武蔵国埼玉郡人、実際には武蔵国造族後裔かその跡を襲ったか。武笠-武蔵国足立郡女躰社神主、笠原同族か。なお、相模国大住郡の大族で藤原北家流を称した糟屋〔糟谷〕氏も、佐伯氏の出かという説もあるが、これには疑問もないではない。あるいは称小野姓横山党と同族か。糟屋は播磨国加古郡に分れたが、その一族としては、相模に大山、朝岡、四宮、城所、大竹、櫛橋、善波、関本、新開、白根など。相模の波多野・松田・河村の一族については、後掲)。

  林連、林宿祢(録・河内。林-紀伊国藤並庄に住)、伴林宿祢、高志連(録・右京、大和。高志-三河人)、高志壬生連(録・右京)、日奉連(録・左京。なお、夫婦木は室屋大連後胤で日奉姓と見えるが、居住地等不明)、佐伯日奉造(録・右京)、佐伯造(録・右京)、佐伯首(録・河内)、佐伯部。

  大伴直、伴直(大伴直の改姓というが、別族の甲斐国造族後裔の可能性が大きい。古屋〔降矢〕-甲斐国八代郡浅間明神神主家。
  以下は古屋同族で、甲斐国内に繁衍も、南朝の宮将軍等に従い西国に赴いた支族も見られた。伴、寺尾、清野、坂、印沢、岩間、八代、祝、井戸、成田、井上、高部、萩原、轟、大鳥居、百々、皆井、宮原、岩下、市部、丹沢、田部、八田、矢作、藤井、金丸、一宮、平井、大久保-同州八代郡人。岩崎、青島、清田、西保、野田-同州山梨郡人。西内-信濃国小県郡西内村より起る。大谷-周防国玖珂郡大谷に住。坂-安芸国安芸郡に住)。

●佐伯氏関係の苗字の殆どが、相模の波多野一族出自のものであるが、これには疑問も残る。波多野をはじめ、以下にあげる一族は秀郷流藤原氏の猶子となった祖先をもつことで藤原姓も称するも、実際には相模の古族の出の可能性もありか。
  波多野〔秦野〕-相模国大住郡波多野邑より起り、一族多く丹波、因幡、能登、石見、陸奥等に分る。石見から長門に遷住した波多野氏からは広沢伯爵家を出す。松田-相模国足柄上郡松田庄より起り、相模、備前、丹波、出雲等にあり。広沢-武蔵国足立郡広沢郷に起り、備後国三谿郡に遷。その一族は和智〔和知〕を本宗として、湯谷〔柚谷〕、江田、余谷、辻子、玉松、宮地、末永、上村、廻神、得尾、黒川、尾越、有福、新見、安田、上原、太田、国富、田利-同じく三谿郡の広沢一族。横尾-肥後人、波多野男爵家を出す。柳川、葉山、岩原、西嶋、松本-甲斐人。佐藤、大友、薗部、沼田、鮎川、平沢、栢山、曽木、菖蒲、荒川、牧田、金村、大槻、小磯、餘綾、松方、緑野、川尻、中嶋、酒井、石田、白川、渋沢、野尻、四井-相模等に住。安木-出雲国能義郡に住。河村〔川村〕-相模国足柄郡河村郷より起り、陸奥、越後、伯耆等に分る。荒河、垂水-越後国岩船郡の河村一族。関原-同州三島郡人。
  河島〔川島〕-山城人。茂庭-陸奥名取郡の河村一族。大萱生〔大ヶ生〕、栃内、日戸、玉山、下田、沼宮内、川口、渋民-河村一族で陸奥の紫波・岩手郡等に住。松並-上北面、斎藤道三を出す。中嶋-伊勢人。荒木-摂津国人荒木村重の一族、伊勢の荒木田神主の族人が入る。石尾-摂津荒木一族。木曽-信濃国木曽人、源義仲末裔と称するも、実際には沼田の族かと推される。信濃の木曽一族には、三富野、野路里、上松、清水、高遠、安食野、上野、黒川、馬場、贄川、三尾、古幡、千村、立石、奈良井、小野川、妻籠などの諸氏で、千村は上野国に起る。

●大和国高市郡の大族越智氏は、散在党の刀禰で鎌倉後期から現れ、同郡越智の貝吹城を本拠として源姓を称した。その出自については古来、大和源氏説、物部一族越智姓説(河野一族説も含む)、紀ないし橘姓説などがみられるが、その一族分布や祭祀行動(九頭竜神奉斎)などを考察すると、大伴氏族の出自(狭手彦流大伴大田連改姓の伴宿祢姓か)とみるのが比較的妥当なようである。
  越智一族は高市・葛城郡に多く分布して、米田、堤、弓場、吉岡、下、楢原、鹿野園、南郷、玉手、坊城、鳥屋、加留〔賀留〕、大嶋、添田、出垣内、根成柿、高取。大和源氏と称した麻生、太田〔大田〕、二河、楊梅、竹田、峯田も早く分れた一族か。また、散在党の池尻、五条野、興田〔奥田〕、松山、脇田、曲川、南脇、小嶋〔子嶋〕、江堤、庭田などの諸氏も同族かそれに近い存在であったとみられる。

(3) 奥羽の大伴支族では、牡鹿郡本貫の本姓丸子氏で恵美押勝の乱に大功をたて陸奥大国造となった道嶋宿祢が著名であるが、その後裔は知られない。
  この関係の大伴支族(そう称するものも含む)では、
  大伴部(陸奥名取郡の名取熊野三社社家の大友氏は族裔か)、靱大伴部、靱大伴連、靱伴連(陸奥黒川郡の式内行神社神主家千坂氏は族裔。なお、同郡の大族で、称源姓の黒川氏も族裔か。黒川一族には相川、大衡、八谷)、大伴行方連、大伴苅田臣(苅田〔刈田〕-陸奥刈田郡人。白石-同族で、途中伊達氏からの入嗣もあって、江戸期には伊達を号し登米伊達家という)、大伴柴田臣、大伴白河連、五百木部、大伴亘理連、丸子部、大伴安積連(安積-陸奥国安積郡飯豊和気神社祢宜。鈴木-同上族。陸奥の鈴木氏は熊野の鈴木氏の後と称するものの、実際には殆どがこの同族ではなかろうか)、大伴山田連、大伴宮城連(会津耶麻郡の宮城氏は族裔か)、丸子、牡鹿連、牡鹿宿祢、道嶋宿祢(陸奥桃生郡の照井は族裔か)、大田部、白髪部。

  なお、栗原郡の駒形根神社の祠官鈴杵氏は、大伴武日命の子の阿良比を祖と伝えて大伴姓を称したが、姓氏不明も、同族の末裔であろう(遠田郡の丸子部改姓の大伴山田連の族裔か)。出羽の平鹿郡式内の波宇志別神社神主大友氏も、藤原姓を称するも、陸奥の大伴部後裔とみられる。出羽の留守所職で飽海郡大物忌神社社司の丸岡、今井氏は丸子部(道嶋宿祢)の族裔ではないかとみられる。陸奥亘理郡の鞠子氏も同様か。
 また、上野国住民で大伴部を賜姓した邑楽郡の小長谷部、甘楽郡の竹田部・糸井部も早くに分岐した大伴支族か。


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  久米氏族概観

○ 天津久米命後裔が「久米氏族」として一括される。この氏族は大和国高市郡久米邑を本拠とし、大伴氏族と警衛等の職掌上も、系譜・分布のうえでも密接な関係をもつ氏族であり、大久米命(道臣命と同人か)から出たと伝えている。大和朝廷における古氏族の一つであり、本来の姓氏は久米部か。また同国宇陀郡にも分岐して門部・漆部の職掌を、伊予・播磨等に分岐して山部の職掌を伝えた。

○ 久米氏族所伝の系図では明確ではないが、崇神前代ごろに大伴氏族と分岐した可能性が強く、それまでの各世代の先祖の名は大伴氏族の祖先の名と異なるものの、おそらく異名同人であろう。これらは安牟須比命の後裔とも称され、紀伊国造とも同族である。

  倭建命の遠征に随行した影響か、西国の国造家を多く出しており、久味国造(伊予国久米郡)、大伯国造(備前国邑久郡)、吉備中縣国造(備中国後月郡説があるも疑問。美作国とするのが妥当か)、阿武国造(長門国阿武郡)、淡道国造(淡路国)、天草国造(肥後国天草郡)の六国造があげられるが、いずれも神魂命(神皇産霊命)の後としてのみ「国造本紀」に記される。
  これら諸国造家では、淡道国造を除くと中世まで子孫を残したことは知られないが、伊予の久味国造の族裔は中世、東方の阿波西部の山間部に展開・遷住して、戦国期の三好長慶一族を出したとみられる。備前の大伯国造あるいは吉備中縣国造の族裔も、吉井川上流部の美作国英多郡さらには久米・苫田郡に定住し、その地を中心に立石・漆間の一族を出したとみられる(その場合、姓氏は漆部直か。大分国造及び物部氏族と称する漆部連も参照のこと)。久米の地名に併せ、美作二宮とされる高野神社(苫東郡。もと高野本郷鎮座か、高野丹生明神を祀るか)や天石門別神社(英多郡)の奉斎等から、このように考えられる。

○ この氏族の姓氏としては、
  久米直(録・左京、右京。久米-尾張熱田神人。坂田-大和国高市郡人)、久米連(長門国阿武郡の大井八幡宮祠官阿武氏は族裔か)、久米宿祢(松岡-尾張国山田郡松岡より起り、美濃国不破郡・近江・肥後に遷。秋山-尾張人。阪田、日野-近江人。久米、清渕、黒川-肥後人)、山部連(山部-近江国日野大宮人。市川、塩見、吉田-播磨人)、山部宿祢、山宿祢(三木、淡河-播磨国三木郡人)、門部連(録・大和)、門部直、興道宿祢、三使部直(安芸国高宮郡人で中縣国造末流)、浮穴直(録・左京、河内)、春江宿祢(浮穴-伊予人)、村部、田部直。

  淡道ノ凡直、波多門部造(録・右京。波多〔秦〕-淡路国三原郡波多郷人、大和大国魂社年預。阿間-住同郡阿間郷人、分れて遠江にあり。安間-遠江国引佐・長上郡人。矢部、長田、賀集、穴賀、庄田、広田、白山-波多同族で淡路国三原郡人。河上-同族で津名郡人)。なお、淡路史生で見える榎本直も淡道国造同族か。

  床石宿祢の後裔とされる漆部連は、「天孫本紀」に物部氏族出自とされるが、実際には大和の門部連支流とみられる。この一族には、漆部連、漆部造、漆部宿祢(和州宇陀郡の豪族で阿紀神社神主の秋山はその末流か)。

●美作の立石・漆間の一族には、漆間〔漆島〕、稲岡、市-美作国久米郡人。立石-美作二ノ宮高野神主家。間島〔真島〕、片山、安東-同上族。久米-同州人、後三河に遷。南条、小鴨-伯耆人、称平姓)。

●阿波国名方郡の久米氏は平姓(ないしは源姓)を称するが、もと伊予国喜多郡久米庄の居住といい、久味国造久米直の族裔とみられる。その一族には鳥野のほか、名方郡で平姓を名乗り同紋(立二引竜十文字)の宮任、浦、白鳥、高川原、箕局、徳里、行万の諸氏。

  また、阿波三好一族で摂津島上郡に居城の芥川氏等の関係系図では、阿波の久米氏と同族で南北朝後期に分離したのが三好氏と伝え、阿波三好氏の成立時期(十四世紀後半の三好義長の曾祖父の代のころ)からも貴重な所伝と考える。そうすると、清和源氏で阿波守護小笠原氏の後とされる三好氏は、実際には久味国造の族裔で、阿波三好郡に遷住して起ったとするのが妥当となる。三好一族には、養嗣で入った氏も含めてあげると、前掲の芥川のほか、淡路の安宅、野口、讃岐の十河(その後に村田)や、板野郡の吉永、齋田、武田、馬詰(その後に亀田)、高志、美馬郡の大久保、岩倉、麻植郡の川田、那賀郡の椿、吉野や笹川など。名東郡の吉田、阿波郡の板東は十河の後と伝える。また、所伝・命名・分布などからみて、土佐嶺北長岡郡の雄族の豊永・小笠原も三好同族ではないかとみられる。三好郡祖谷山の喜多氏も、早くに分れた同族か。
  これに関連して、喜多郡久米郷から出た大野氏は、大伴宿禰姓(称家持弟高多麻呂後裔)とも嵯峨天皇末裔ともいうが、内容的に疑問が大きく、おそらく久味国造末流であろう。大野は浮穴郡久万の大除城にも分れた河野氏の重臣で、喜多郡の一族には城戸〔木戸〕、菅田。この一族というものが伊予に多く、喜多、久米、今窪、伊賀崎、相津、一木など。



大伴氏

その後

939年には善男の曾孫である伴保平が参議となり、久々に公卿が出たが、もはや政治的衰退を盛り返す力は残っておらず、950年に引退して以降は公卿は出なくなる。平安時代前期には、紀氏と並んで武人の故実を伝える家とされたが、武士の台頭とともに伴氏は歴史の表舞台から姿を消していく事となり、その後は伴忠国が鶴岡八幡宮初代神主となって以降、その社職を継承しながら血筋を伝えていく事となる。受領(国司)から地方に土着し、武士団化した氏族も各地に残っている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%B4%E6%B0%8F


大伴氏/伴氏

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02103.htm



紀氏

古代は臣姓・朝臣を賜り、紀小弓・紀大磐・紀男麻呂などが廷臣や鎮守府将軍として軍事面で活躍する傾向が目立っていたが、平安時代に入り藤原氏が朝廷の要職を占めてくるにつれて紀長谷雄(紀大人の子の紀古麿の子孫)以降は政治・軍事面で活躍する機会はほぼ無くなり、紀淑望・紀淑人(紀長谷雄の子)、紀貫之・紀友則(紀大人の子の紀園益の子孫)以降の子孫は神職や文人として活躍するようになる。

紀氏の流れを汲む末裔として、浦上氏や安富氏、益子氏、菅谷氏、信太氏、高安氏、中村氏、堀田氏(江戸時代の大名家の堀田氏は仮冒系図であると思われる)、品川氏などが挙げられる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E6%B0%8F


紀 氏

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01209.htm



中村氏
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Nakamura



 中村は本村や本郷と同意で、分村や子村に対する元になった村をさす。古代、稲作の定着と発展に伴い集落の人口が増え、耕地の拡大にしたがって分村化がすすんだ。そこから中央の「中村・本村・元村・本郷」に対し、分村の方角によって「上村・下村・北村・西村」、規模によって「大村・小村」などの地名が生まれ名字化していった。中村は仲村とも書かれ中邑・中邑も同意で、稲作と関係するだけにその地名は全国に分布し出自も多彩である。
 古代氏族では、大和忍海郡中村郷発祥の中臣氏族の中村連、陸前新田郡中村郷から起こった上毛野氏族の中村公が知られる。のちの中村氏では、地名を名乗った荘園武士の後裔が主流となってくる。
 相模余綾郡中村郷から発祥した桓武平氏良文流の中村氏は、中村郷の庄司となった平宗平の子重平が中村太郎を称したことに始まる。宗平の次男実平は土肥二郎、三男宗遠は土屋三郎、四男友平は二宮四郎大夫を称して武士団を形成した。治承四年(1180)、源頼朝の旗揚げに馳せ参じて活躍、重平らは鎌倉御家人となった。秀吉に仕えて大名となった中村一氏は良文流中村氏の後裔というが、橘姓、佐々木、藤姓ともいわれ、実際のところは甲賀伴氏から出たとする説が有力である。

■桓武平氏中村系図

 武蔵秩父郡中村から出た武蔵七党のうち丹党嫡流の中村氏は、丹時重が武蔵国秩父郡中村郷に居住し、中村貫主を称したのに始まる。時重の孫右馬允時信が源頼朝に仕えて軍功があり、幕府御家人に取り立てられた。のちに播磨国宍粟郡三方西郷に地頭職を得て、遠く播磨国波賀庄に西遷した一族は下中村氏とよばれ、本家で武蔵国に残った宗家は上中村氏とよばれた。
 肥前の中村氏は橘姓渋江氏の分かれで、肥前杵島郡長島庄を領した橘公業の孫公光に始まる。二男の公有は中村弥二郎を号し、冦の役に兄公平に代わって出陣し、そのときの古文書がいまに伝わっている。公有の子孫が橘姓中村氏の主流となっていった。
 常陸国真壁郡中村より起こった中村氏は、藤原北家山蔭流といい伊佐とも称した。朝宗は源頼朝に仕えて、子供たちが奥州合戦に活躍、陸奥国伊達郡を頼朝から与えられた。長男為宗は常陸の本領を受け継ぎ、次男宗村は伊達郡をもらって子孫は伊達氏を称した。
………

■丹党中村系図

 その他、中村氏は異流が多い。桓武平氏系では、常陸大掾氏から分かれた中村氏、新治郡中村から起こった 伊佐氏族中村氏がいる。清和源氏では、甲斐武田氏族板垣兼信の後裔信貞が中村庄を領し子の兼邦が中村氏を称した。 土岐氏系舟木光経の子光長が中村谷に住んで中村仁左衛生門を称し、源為義の嫡男源太義平の後裔を称する 中村氏などが知られる。藤原氏系では、藤原北家道長流の中村氏、藤原南家からは巨勢麻呂流十一世の孫栄成の 曾孫中村先生盛重に始まる中村氏、利仁流河合斎藤助宗の後裔中村次郎実光を祖とする中村氏が出て、 北陸に広まり加賀前田氏に仕えた家も多い。さらに、磐城の宇陀郡仲村郷から起こった秀郷流結城氏族中村氏がいる。
 他方、近江源氏佐々木氏から出た中村氏、遠江の紀姓中村氏、土佐の高岡郡中村の豪族中村氏は秦氏族の惟宗氏系といい、長曽我部氏の家臣として栄えた。伊賀の中村氏は『太平記』にあらわれる名張八郎の後裔という。武蔵七党横山党から出た中村氏、中臣氏族の中村氏は「和田系図」に大中臣助平の後裔助隆が中村小太郎を称したことに始まるとある。他にも伊予の風早郡中村から出た中村氏、備前岡山の佐々木氏流加地氏系、播磨の大族・赤松氏配下の中村氏、長門では大津郡発祥の大内氏系、九州では肥前松浦党の流れ、肥後玉名郡の紀氏系、薩摩には豪族肝付氏族の分かれなどが輩出している。出自に関する異流の多さでは、中村氏は随一ではなかろうか。
 中村氏の家紋を見ると、丹党中村氏が「三つ星」「丹一文字」、播磨の中村氏が「亀甲に菊」、中村一氏は「立沢瀉」「梅鉢」を用いた。道藤原北家長流は「藤丸」、桓武平氏良文流は「立沢瀉」、武田氏族は「花菱」「二つ引両」、為義流は「竪二つ引両」「五三桐」、名張氏系は「亀甲」を用いたという。他にも橘、蔦、釘抜、稲、梅鉢、菊など出自によって家紋も多種多彩だ




中村氏
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(橘一族の代表紋、中村氏の家紋は調査中)
(橘姓)


 肥前杵島郡長島庄を領して潮見城に割拠した橘姓渋江氏は、橘朝臣公村の時、はじめて姓を渋江と改めた。そして、その弟三人は分家して、それぞれ牛島・中村・中橘を名乗ったことが知られる。
 中村氏の初代公光は、文永九年(1272)父橘公義から百町の領地を分与されて分家したが、百町の領地とは石高になおすと二千石くらいに換算される。大領主というものではないが、それなりの所領を支配したことになる。
 公光のあとは嫡男の公平が継ぎ、二男の公有は中村弥二郎を号して兄を援けた。元冦の役に際しては公有が兄公平に代わって出陣し、そのときの古文書がいまに伝わっている。ついで、元弘三年(1333)官軍が鎮西探題北条英時を攻めた時、橘氏は官軍に属した。建武二年(1334)、新政府に反旗を翻した足利尊氏の一党が長門国下山に立て籠ったとき、中村弥二郎は官軍に味方してその討伐に馳せ参じた。その後、南北朝の内乱に当たって、橘一族はおおむね足利方に属し、中村弥二郎公有もこれに随従した。やがて、宗家に代わって弥二郎公有が中村氏の主流となっていった。
 公有のあとは二男の公世が継ぎ、鎮西探題となった一色道猷が南朝方の白石氏を須古に攻めたとき、宗家橘氏に従って須古攻めに加わった。以後、筑前・筑後・豊前・豊後を転戦し、応安四年(1371)に今川仲秋が九州に下向してくると、公世はこれを安芸に迎え、弟野副祖甲坊定円とともに後藤氏が拠る塚崎城を攻めた。翌五年には少弐頼泰に従って筑後国北郷、筑前国壱岐、肥後国関山などを転戦、中村氏は終始一貫して足利方として活躍した。

勢力拡大

 南北朝時代において中村氏の所領は、北方村・大崎村から橋下村におよび、公明の代には長島庄内久地布留村、芦原の平倉村、長池村を領した。公明の子公勝は探題渋川満頼に従って、蜂起を繰り返す九州南朝勢と戦い感状を給わっている。
 中村氏の勢力を拡大したのは、公勝のあとを継いだ公廉であった。公廉は小城郡に進出し、肥前守護代の地位にある千葉胤鎮から重用され、やがて千葉氏をも凌ぐようになった。永享九年(1437)公廉は中国の大名大内氏に内通し、主人胤鎮を廃して弟の千葉胤紹を擁立して、小城・佐賀・杵島三郡の惣領につかせると自らは郡代となった。さらに、藤津の大村氏を篭絡して、大村氏領の大草野村北方の地を搾取した。まさに、下剋上を地でいくような公廉の行動であった。
 この間の公廉のことを『鎮西要略』では「千葉家の家宰中村左衛門五郎逆心を発し、中国の大内氏と通じて千葉胤鎮を廃し云々」と記されている。やがて千葉氏譜代の家臣らが胤鎮を擁して挙兵、胤紹・公廉に挑んできた。両軍、各地で戦いを繰り返したが、文安二年(1445)敗れた胤紹・公廉は国府に退却し、ついに胤紹・公廉ともに戦死をとげてしまった。
 かくして千葉胤鎮が家督に復活し、そのあとは胤鎮の嫡子元胤が千葉氏の惣領となった。そして、この元胤の家宰は中村播磨守であったと『鎮西要略』にみえる。この中村播磨守は、さきに戦死した公廉の子播磨守公頼に比定されている。公廉が死んで十年目のことであり、中村氏の復活としては早すぎるようだが、何か千葉氏と中村氏との間には伺い知れない紐帯があったのかも知れない。
 さて、千葉氏は元胤の時代が全盛期で、小城城下はおおいに賑わったと伝えられている。寛正五年(1464)元胤が死去すると、中村越前守(さきの公頼か)は幼主教胤を補弼して、翌六年今川氏を討つため出陣、戦いに利あらず討死を遂げてしまった。千葉氏の家宰中村氏の勢力は、主家を凌ぎ千葉氏は中村氏によって左右されたといても過言ではない状態にあった。その関係は越前守戦死後も続き、公連・公集父子は千葉興常より杵島郡山口・小田の地を附与されている。中村氏は宗家橘渋江氏に属しながら、千葉氏にも属してその重臣として進退していたのであった。

後藤氏の家臣として近世に至る

 その後、千葉氏は東西に分裂し、興常は大内氏に通じ、本家千葉氏は少弐氏と近かったため、両家は対立するようになった。中村氏は大内氏に通じて興常に加担したが、千葉両家は抗争のなかで勢力を失墜していった。そのようななかで、橘宗家渋江公勢が勢力を拡大したが、公勢の横死によって、大永七年(1527)、後藤氏の侵攻を受けて長島庄を失い没落の運命となった。
 中村氏は有馬氏に属して横辺田砥河村を与えられたが、宗家の没落によって中村氏の勢力も次第に衰え、中村公顕の代に至って武雄後藤氏の家臣となった。かくして、中村氏は自立した勢力になりえず、後藤氏の家臣となったがその知行は五十町草高千石で、当時後藤氏家中最大の所領を有する身であった。しかし、江戸時代に至って、独立を目論んだことから一族散亡の憂き目となり、子孫は医師となって続いたと伝えられている。



人名としての橘

まず記紀に登場するのが日本武尊の妃であった弟橘比売です。『日本書紀』によれば、穂積臣忍山宿禰の娘とされ、入水伝説に見られる通り、水に関係の深い女神です。記紀の中でも特に美しく悲しい物語が弟橘比売の物語でしょう。

他には、雄略紀に「橘姫皇女」、仁賢紀に「橘皇女」、宣化紀に「橘仲皇女」「橘豊日尊(用命天皇)」「橘本稚皇子」「橘麻呂皇子」等があります。
また、橘豊日尊の子が聖徳太子でその妃が「橘大郎女」ですから、この時代に橘が人名に多く用いられたことがよくわかります。

橘が姓として正式に登場するのは、県犬養宿禰三千代が和銅元年(708年)11月25日元明天皇即位の大嘗祭後の祝宴で、天武天皇から橘姓を賜ったところからです。
この後、これまで橘を姓としていた一族は椿姓に改めました。






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jama
good bye peter
火曜日
2014/01/14 12:48

Peter Midani

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...

今日1:52
jama

why you sent me this?



Peter Midani
1:52

i want you to join the forum.


jama
1:52
hummmmm i don't know why...
anybody can't understand what i say



Peter Midani
1:55
i understand what you say
that all that matter



jama
1:56
yes this is so important things but ppl never understand

they just try to find where is michael
i'm so tired about those ppl

Peter Midani
1:59
yeah but this is different our forum we just post topic what we want to talk about and get people to write back


jama
2:04

i didn't check your forum yet,i will try it but now ican't,i have to serch more,i really need to know what's going on about this world
and i can't trust you now b/c you never answer my questions.but it's ok




チャンネル桜だけど、いちお。
いろいろな問題がある、いろいろな見方をしなくちゃいけないってことで。





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